ハンバーガーや牛丼、フライドチキンなど、現代の日本にはファーストフードがあふれています。忙しい時でもさっと食べられる手軽さは魅力ですが、どんな添加物が入っているか、どんな食材を使っているかが分からないため、良いイメージを抱かない人も多いのではないでしょうか。実は、ファーストフードは江戸時代にもあり、町民をはじめとしてさまざまな人に愛されていました。今回は、そんな江戸時代の食生活についてご紹介しましょう。

江戸ファーストフードの代表格は「すし」「天ぷら」「そば」

江戸時代のファーストフードと言えば「すし」「天ぷら」「そば」の3つ。江戸の町には、こうした食事を提供する屋台があちこちにあり、賑わっていました。

担ぎ棒に引き出しだけの小さな屋台

屋台は非常にコンパクトに作られていました。例えば、そばの屋台は、大きな担ぎ棒の両脇に引き出しのついた木箱をつけただけというもの。引き出しの中にはそば玉やどんぶり、箸のほか、つゆを温める七輪や鍋までが収納されており、それだけで店を営業できるようになっていました。

新鮮な魚が手軽に食べられる「すし」や「天ぷら」

すしや天ぷらは、現代の感覚からすると豪勢に感じられるかもしれませんが、これらも江戸時代では庶民の味。小屋のような屋台で、とれたての江戸前の魚をさっと調理して提供されていました。特に、現代でも人気の高いコハダのすしは、当時の江戸でも小粋な食べ物として好まれており、「坊主だまして還俗させて、コハダのすしでも売らせたい」という俗唄も登場するほど。美男の多い坊主に、粋なコハダのすしを売らせればさぞかし売上げが伸びるだろうという意味で、その人気のほどがうかがえます。

ファーストフードが人気になった3つの理由

江戸の町民に、ここまでファーストフードが受け入れられたのは、どのような理由があるのでしょうか。

単身男性のニーズに合わせて発展

ひとつには、当時の江戸には独身男性が多かったという理由が挙げられます。1657年に起こった明暦の大火により、江戸の大部分が焼失してしまい、その復興のために地方から大勢の働き手が流入してきました。また、参勤交代により地方から出てきている武士もおり、単身の独身男性の数は相当なものだったと言われています。現代でもそうですが、1人だと外食したほうが効率的という面もあり、手軽に食べられる屋台のファーストフードがもてはやされました。

火事を防ぐために自宅で調理をしなかった

大火で有名な江戸の町では、屋内で火を使うのが嫌われたというのも理由のひとつ。よほど大きな家ならばともかく、長屋に住んでいるような庶民は自宅で煮炊きをすることが少ないため、必然的に外食が多くなるという事情がありました。また、明暦の大火以降は、防火対策として広小路や広場が設けられ、道端にスペースができるようになりました。そのため、店が出しやすく屋台文化が発展していったのです。

手早く食べたいという江戸っ子の気質

3つ目の理由として挙げられるのは、江戸っ子の気質。ご存じのとおり、江戸っ子はせっかちです。待たされるのを嫌い、手軽にさっと食べられる食事が好まれたという理由もありました。

このように、当時の社会情勢や町民の好みなど、さまざまな理由がミックスされ、発展していったのが江戸のファーストフード文化なのです。

現代と江戸時代のファーストフードの違い

現代でも江戸時代でも、庶民に支持され、愛されていたファーストフード文化。しかし、私たちはその両者が似て非なるものであることを認識する必要があります。

江戸時代のファーストフードは、江戸湾や周辺の地域でとれた新鮮な食材を生かした地産地消が行われており、現代でいう「スローフード」にも通じる食事でした。いつ、どこでとれたか分からない食材を冷凍して運び、解凍して提供する現代のファーストフードとは、まったく違うものだったのです。

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本当に幸せな食事とは何か

食文化はその時代の状況を踏まえて生み出されるものであり、現代のファーストフードが支持されて、消費されているのには理由があることは想像がつきます。しかし、江戸時代と現代のファーストフードを比べたとき、どちらが本当に幸せな食事と言えるのか、私たちは考える必要があるのかもしれません。

参考:

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