江戸時代に水を得る手段と言えば「井戸」。つるべを使って地下水をくみ上げるのは、時代劇でもおなじみの光景です。しかし、実は江戸の町では、この地下水だけでなく「水道」も使われていたことをご存知でしょうか。江戸っ子が自慢にしていたと言われる、当時の水道についてご紹介します。

ゆるやかな「水道」が流れる江戸の町

江戸時代に「水道」が使われていたと聞くと、驚く人も多いかもしれません。そんな昔に蛇口なんてあったのかと、不思議に思う人もいるでしょう。しかし、現代のものとは大きく異なる水道が存在していたのです。

江戸の町の「井戸」は、実は「水道」だった!?

江戸の町の水道とは、「自然下流式」と呼ばれるものでした。これは言葉の通り、高いところから低いところへ圧力をかけずに、自然と流れる水の性質を利用したもの。江戸の町の地下には、この水が流れる「水道」が張り巡らされていました。
この水道を通して、それぞれの地域に届けられた水は、街中に設置された井戸に直接供給される仕組みになっており、町民たちはそこから、つるべを使って「水道水」をくみ上げていたのです。

「産湯に水道を使った」が自慢だった江戸っ子

こうした水道システムは、江戸時代のどの町にも見られるものではありません。江戸はもともと海辺や湿地帯に作られた町ということもあり、井戸を掘っても塩気が混じり、良質な地下水を得ることが難しいという事情がありました。そのため、江戸幕府を開くにあたり、徳川家康が整備を進めたのが「水道」だったのです。
もちろん、江戸町民がほかの町にはない「水道」を、気に入らないはずがありません。時代劇でも時折見かける「こちとら水道の水で産湯を使った江戸っ子よぉ 」という啖呵はそのことをよく表しており、江戸町民が自分たちの町の「水道」を誇りにしていたことが伺えます。

「水道」のある景観が人々の生活を潤していた

こうした江戸の町を流れる「水道」は、もともとは武蔵野台地の谷を流れていたもの。その水は井の頭池を経て神田上水となり、幕府によって作られた「水道」に流れ込んでいました。
また、神田上水の届かない地域では、多摩川から流れてきた水が川越や国分寺を経て玉川上水に流れ込み、江戸の町の南側に水を供給していたと言われています。このほか、江戸の町とその周辺には千川上水、青山上水、三田上水、亀有上水など6つの上水道があり、郊外にまで張り巡らされていました。

「名所江戸百景」に見られる江戸の町

ここで注目したいのは、こうした上水道はただ張り巡らされていたのではなく、水がゆるやかに流れるようコントロールされ、景観としての美しさを保つよう整備されていたことです。そうすることにより、ゆっくりと流れる水が大地を潤すだけでなく、町の中に水のある景観を生んでいたのです。
こうした江戸の情景は、歌川広重による浮世絵「名所江戸百景」にも見ることができます。例えば「玉川堤の花」には、見事に咲き誇る桜とともに玉川上水が描かれており、そのほとりで人々が春を楽しむ様子が描かれています。このような美しい情景が、人々の生活をも豊かに潤していたことは想像に難くありません。江戸の町に張り巡らされた「水道」は、人々に生活用水を供給する以上の役割を果たしていたのです。

江戸の町の治水は、現代でも参考になる

こうして見ると、江戸時代の治水は、川の両脇をコンクリートで固め、水を早く海に流そうとする現代の考え方とは大きく異なることが分かります。自然の流れのまま景観を豊かに潤す水の流れと、上を忙しく高速道路が行き交う現代の水の流れ、どちらが人の心を豊かにしてくれるかは言うまでもないでしょう。江戸の町は現代の都市計画を考えるうえでも、参考にするべき部分は多いのかもしれません。

江戸の住宅に関するこちらの記事もご覧ください

参考:

 

Facebookページ始めました!最新の更新情報をお送りします。
江戸文化の記事もこちらでチェックしてください!
茶堂Facebookページ