戸塚・善了寺では毎朝「朝のおつとめ」を、本堂で行なっています。
その際に、住職から仏教に関するお話をさせていただいています。
その時のお話を、ご紹介させていただきます。

扇を広げるためには、要(かなめ)がギューッと締め付けられていては開きません。広がる程の柔らかさが必要です。また、要がパキット折れてしまってはバラバラになってしまい、扇ではなくなってしまいます。要がとても大切ということですね。

私の日々の日暮しを扇に例えたとき、そのよりどころである要に当たるものは、どのようなものでしょうか。

日暮し生活を営む私自身でしょうか。しかし時代や身体に振り回されて、様々な思い通りにいかない現実の中で、真実がわからなくなった自分自身をよりどころとし、自分勝手な思いで救われていくと思い込むことは、暮らしの要にはなりません。

そういった、苦悩を抱える私たちのために、阿弥陀様が「自らが要になる。どうか、私をよりどころとして、この世を生ききって欲しい」と、現れてくださっているのです。

それは、私が、信じてから救われるというみ教えではありません。苦悩を先に受け取ってくださる阿弥陀様がナモアミダブツと、あらわれてくださり、私たちの人生の要となってくださっているということを、そのまま聞かせていただくのです。

ナモアミダブツとお念仏することは、功徳が、たくさん詰まったお守り袋を持ち歩くという感覚ではありません。人生の要をいただいているのです。

今日、こうしてお参りさせていただくご縁は、阿弥陀様の「我にまかせよ。必ず救う」というはたらきそのもの(扇の要)によって、ナモアミダブツの功徳が開かれて、お朝じのご縁に遇えているのです。(ちょうど扇が開かれている状態ですね)

どんな苦難があろうと、ナモアミダブツとお念仏申させていただけましょう。道がなくなってしまうわけではありません。暮らしの要を阿弥陀様の大慈悲に頂戴させていただいて、今日1日、一歩一歩あゆませていただきましょう。

このように、私は、味わわせていただきました。

「朝のおつとめ」は、365日行なっています。
1日の始まりを、善了寺でのお参りからはじめてみませんか。
どなた様でもお参りいただけます。
どうぞお気軽にお越しください。

文:坊守
※「ぼうもり」と読みます。住職の連れあいです。
鎌倉時代から大切にされてきた言葉なんですよ。
時々つぶやきますので、優しくお付き合いください。