ボランティアとは、自発的に社会活動に参加することを意味する言葉。東日本大震災以降、家屋の片付けやがれきの撤去などを奉仕活動として行う人が増えたり、東京オリンピック運営のためのボランティアが大々的に募集されたりと、これまで以上に注目されるようになってきました。

実は江戸時代の行政も、このボランティアでまかなわれていたことをご存知でしょうか。江戸時代の行政の仕組みと、そこから読み解ける現代のボランティアとの違いについて、考えてみます。

町人によって運営される江戸の町

江戸時代の行政の仕組みとは、いったいどのようなものだったのでしょうか。

行政の主役は町年寄、町名主、大家の3役

江戸の町の行政のトップは、時代劇などでもよく登場する「町奉行」です。しかし、この奉行所の役人は300〜350人足らずで、50万人とも60万人とも言われる江戸の町人を治めるには少し不安がありました。

そこで、実際の行政の中心になっていたのが「町年寄」「町名主」「大家」の3役です。これらは武士ではなく町人階級の中から選ばれ、道路の保守管理や防犯、防火、紛争の調停などさまざまな役割を担っていました。

3役の密接な連携が、江戸の町を治めた!

この3役の中でもっとも高位だったのが「町年寄」という役で、町奉行所から出された布令を受け取り、町人に伝達する役割を持っていました。有力町人である奈良屋、樽屋、喜多村の三家が世襲で努めており、イメージとしては現在の都知事のような職責を担っていたとされています。

「町名主」は町年寄の下に位置し、小さく区切られた町単位での行政を任されていました。平均しておよそ7〜8町を担当しており、ほかに仕事は持たず、専任で町政を行っていたと言われています。また、「家主」はさらにその下で、町名主の指示を受けて実際の町民と接触し、実際の町の運営に当たっていました。

家主はその名の通り、店子が住む土地や建物の管理も請け負っており、店子の相談相手になったり、もしも不始末を起こした場合は連帯責任を負ったりすることもあったようです。有名な「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」という言葉は、そうした大家と店子の関係を表すものとも言えるでしょう。

見回りのついでに宴会を……落語「二番煎じ」にみる江戸の行政

こうした自治の様子は、古典落語「二番煎じ」の中にも見て取れます。

火事を起こさないよう、防火のための見回りをしようと町内の有志が集まったところまではいいのですが、寒さのあまり懐から手を出さずに拍子木を打ったり、冷えた金棒を引きずってならしたりするなどの横着をする旦那衆。番小屋に帰ってからもその緊張感のなさは変わらず、誰かがこっそり持ってきた猪肉と酒で、あろうことか宴会を始めてしまいます。そこへ役人がやってきて話は思わぬ方向へ展開していくのですが……その後の顛末は実際に落語を聞いていただく際のお楽しみとして、ここでは江戸時代の見回りの様子に注目してみましょう。

江戸時代の実際の見回りもこんな調子で進んでいたかは定かではありませんが、これらの旦那衆は仕事ではなく、町を自分たちの手で守ろうと集まってきたもの。他人任せにするのではなく、お互いに助け合いながら、自分たちで町を治めようとする意識が強かったのです。

現代のボランティアは義務になった?

冒頭でも述べたように、最近ではボランティア活動に従事する人も増えてきました。しかし、学校教育の一環として行われたり、就職活動を有利にするなどの目的で参加したりする場合も少なくありません。

もちろん、どんな理由であれ、社会への奉仕活動を行うこと自体は素晴らしいこと。しかし、助け合いの精神で自分たちの住む町を自分たちで運営しようとするのと、何か見返りを求めて義務的に行うのでは、意識の上で大きな隔たりがあることは否めないでしょう。ボランティアとは、もともとは自発的に奉仕することから始まったものです。このように、少し本来の意味から少しずれて使われるようになってきたのは、少し残念なことと言えるかもしれません。

ボランティアの理想型は、江戸時代にあり

江戸時代と現代ではコミュニティのあり方が大きく異なるため、ボランティアに関しても、どのような形態がいいと一概に言うことはできません。ただ、お互いに助け合いながら、町のために自分のできることをするという江戸時代のあり方は、ひとつの理想型と言えるでしょう。現代に住む私たちも見習うべき部分がないか、考えてみる必要があります。

参考: