こんにちは。

私は2019年4月から瀬戸内海の離島、小豆島で暮らしています。夫と子ども2人と横浜から移住してきました。ここでは島暮らしの日々をお届けします。

今回は、島暮らしに不可欠な船の話です。

 

風景としての横浜の船

 

私が生まれ育ったのは横浜なので、船のある風景には少し馴染みがありました。

山下公園には日本郵船の氷川丸が、桜木町には日本丸がいて、大桟橋にはそのときどきに大きな豪華客船が停泊しています。私にとって横浜の船は、移動手段ではなく、繋がれていて動かない船と、遠くからきた豪華客船。それらはすべて風景として「見る」船でした。

 

(横浜・山下公園の氷川丸)

移住者や旅人にとって、船はエンターテイメント

島に来てから、船はますます身近になり、見るだけでなく乗る船、という存在になりましたが、初めて小豆島にわたった私たちにとって、船はただの移動手段だけにとどまらず、乗るだけで旅情をかきたてるひとつのエンターテイメントでした。きらきらと光る海面の美しさや、いくつもの島々に目を奪われて、ずっと展望デッキから外の景色を見ていました。

夫の元同僚が東京から遊びにきたときも、東京からわざわざ船にのって時間をかけてやってきました。忙しい都会の日常から離れて過ごす船旅での時間は、非日常であり立派な旅の一部なのです。

 

(高松港を出て島へと向かうところ)

移動手段としての船

島で暮らすようになり、たまの用事で高松に出るときに船を使うようになり、何度も乗っているうちに徐々にエンタメ感は減っていきました。

展望デッキには出ず、窓のカーテンを引いて景色を見ることもなく、次の用事に忙しく頭を巡らせるようになりました。風景よりも時間を気にするようになり、まさに、船は私にとってもただの移動手段になりました。それでも、だいたい高松で半日過ごし慌ただしく用事を終えて高松港につき、向こうのほうから見慣れた船が見えてくると、たった半日離れていただけなのに、ほっと安心感がわいてきます。あの船に乗れば家に帰れる、という気持ちになるのです。

 

島にずーっといるときにはだんだん閉塞感を感じ、島にはない大型のショッピングモールや便利なサービス、ミスタードーナツやドトールのミラノサンドが恋しくなったりもするのに、久しぶりに高松に行ってそれらを駆け足で楽しんだあと、帰るころには高松のコンクリートだらけの町並みや工場が並ぶ殺風景な景色に疲れ、やっとの思いで港につくとパンダやオリーブがくっついたほのぼのした船がボボボボボ~とぐるり旋回して着岸する姿に出会います。迎えにきてくれてありがとー!帰りまーす!という気持ちになるのです。

船は移動手段であるとともに、島への郷愁をかきたてる存在になっていて、私はいつのまに島民になったんだろう。と不思議に思います。

 

(最近新しくデビューした、高松港~小豆島の池田港を結ぶぞうさんの船)

島で見る、色々な船

高松いきの船は移動手段として定着したけれど、小豆島で「見る船」は他にもたくさんあります。

毎日、自宅前の海に同じ時間にあらわれるジャンボフェリーは、小豆島と神戸を繋いでいる大きな船です。朝にも夕方にも、同じ時間に同じ大きさで同じ角度で進んでいくので、あれにのったらいつだって神戸に行けるんだな、と、乗らなくても遠くにつながっていることに希望が持てます。

台風の時には、入り江になっている内海湾に多くの船が避難してきます。その数、30隻を超えることもあり、島の人は避難してきた船の数を数えることで、今回の台風の大きさを予測するとか。緊急避難なので、普段見慣れない船も多く、子どもたちは特に興味津々です。

そう、都会だと電車が好きで、よく見えるところでずーっと何時間でも電車を見ている小さな子どもがいますが、島では「珍しい船がとまってるよ!」と情報がまわると子どもと一緒にわざわざ船を見に行ったりします。帆船やタンカーなど、造形がかっこいい船は子どもにとってとても魅力的にうつるようです。

ここにいれば安心だ、というかのように台風が去るまでじっと停泊している船たちを見ると、いいところに住んでいるんだなあ、という思いがわいてきます。

 

壷井栄と船にまつわる話

 

次に、壷井栄のエッセイ「随筆・小豆島」に『ふるさとの海』いう一編があり、船にまつわる印象深いエピソードがあったのでご紹介します。

壷井栄の出身地は島のなかの「坂手」という地区。坂手の表側は穏やかな海ですが、東側は播磨灘を受けているため波が高く、昔は船が難破し、積み荷が海にばらまかれて浜に打ち上げられることがあったそうです。筆者の体験では、ばらまかれた積み荷のうち印象深かったのは次の三つ。

ひとつめは、米。

米を積んだ船が難破して浜に大量の米が打ち上げられ、田んぼを持たない地元の人が「もったいない!」と、こぞってざるを持ち米を拾い、砂が半分入ったような米を念入りに洗って餅をついたそうです。筆者もその餅をもらったことがあるけれど、うっすら汚れている気がして食べる気にならなかった…と記されています。

ふたつめは、みかん。

紀州からきたみかん船が難破したときには海一面がみかん色になるほどみかんでいっぱいになったとか。お米と違ってみかんは砂に混じらないので、波に洗われてますますつやつやしていたこと。これは喜んで拾ったこと。などが楽しげにかかれています。坂手の海一面に、つやつやぷかぷかと大量のまるいみかんが浮かび、子どもたちが喜んで手に取る様子を想像するとなんだか楽しい光景に思えてきます。

みっつめは、下駄。

下駄を積んだ船が難破したときには、海の上は下駄の波、浜にも沢山の下駄が打ち上げられ、村人は互いに拾った下駄のなかから左と右を見つけあったそうです。途中でお巡りさんが来て拾ったらだめといい、下駄はすべて村役場に集められました。やがて難破した船の先頭が現れて後始末をはじめ、大量の濡れた下駄が村の雑貨屋に払い下げられました。雑貨屋はその下駄をたいへん安く村人たちに売って大もうけをした、これがほんとうの二足三文、という落語のような落ちがついており、筆者は涙が出るほど笑ったそうです。食べ物ばかりではなく、下駄までもぷかぷか浮かぶ坂手の海。もし自分がその時代の子どもだったら、次は何が流れてくる?と好奇心をかきたてられ能天気に楽しみにしていたかもしれません。

しかし自然の力は、笑い話になるような出来事ばかりをもたらすわけではありません。

壷井栄の「ふるさとの海」は、「しみじみとした話」として次のエピソードで締められています。

海辺ではたまに、漁師や子どもが漂っている樽を拾い上げることがあり、そこには『奉納金比羅大権現』という文字のまわりに乗組員の名が書き連ねられ、手拭いにしっかりさい銭を包んでしばりつけられているそうです。これは難破した人たちが生死をこんぴらさん(※)に預け、海の上から祈願をこめて投げたものだそうで、これを拾った人は心からの同感を持ち、顔も知らぬ船人たちのために、仕事を休んでこんぴらさんに代参することがあったそうです。

小豆島からこんぴらさんまで、かなりの距離です。代参は時間もお金も労力もかかる一大事ですが、海の厳しさを知っているからこそ海に命をかけた人たちの思いを尊重し、お参りしたのでしょう。

 

(現在の坂手・瀬戸の浜)

 

小豆島の船にまつわるさまざまな物語。時代が変わるとともに船にまつわる事情も変化していきますが、人とものを絶えず運び、島と外をつなぐ船は、いつの時代も希望をのせているのだと思います。

 

※こんぴらさん…香川県琴平にある金刀比羅宮。海上交通の守り神として信仰されています。

 

参考:

「随筆・小説 小豆島」 壷井栄著 光風社 

 

書き手・写真 :

喰代彩 (ほおじろあや)

横浜市出身、善了寺のデイサービス「還る家ともに」で介護士として働いていました。現在は小豆島にIターン移住して三年目、二児を育てながら島の暮らしについて書いています。