安富 歩さんの著書『ありのままの私』 ぴあ株式会社発行 2015年 を読ませていただきました。

日本の文化の中で、宝塚歌劇団の男役を追っかけているのも、女役を追っかけしている女性ファン(つまり男性の格好をした女性をかっこいいと追っかける女性も、女性をかわいいと言って追っかける女性)も、考えてみればにジェンダーフリーとも言えますが、彼女たちの事は宝塚の歴史とともに長く認められ絶えることなく続いています。歌舞伎の女形でもその逆のことが認められているのに、一般の男性が何らかの理由で女性用の服を着ていたら、じろじろコソコソ見られたり、差別に繋がったりしますし、またその逆もしかりです。

それは、はるな愛さんや私のように、異性の姿をしている人だけではありません。誰だって、「男」でも「女」でもないのです。そういう分類そのものが暴力なのです。(同書、134頁)

(中略)つまり「性同一性無秩序」という意味です。何が「無秩序」なのかというと、男の身体で自分が男だと思っていれば「秩序」立っていて、男の身体のくせに女だと思っているのは「無秩序」だ、というわけです。(中略)赤ん坊を男女の集団に割り当てる、という儀礼を行う以上、その子供がそれぞれの性別の集団の規範や文化に順応するように期待されているからです。これが期待通りにいけば「秩序」ですし、期待がはずれて、男のくせに女の服を着たりすると、「無秩序」です。(同書146頁)

「男、女の分類そのものが暴力」

「男、女の分類そのものが暴力」など、考えたことがなかったので、自分が何と無関心で無神経であったかとハッとさせられました。なぜなら私は自分のことを「女」だと思っているからです。そういう分類って必要?確かに!「私は人間です」それで十分かも!(自分のことを「料理が苦手な女」と思うから女のくせにと肩身が狭いのであって、「料理の苦手な人間」なら、人間のくせにとはならないわけで!)考えてみると、ただ、自分のあるがままに自然体で正直に生きているだけで、「性同一性障害」といわれてしまうなんて理不尽なことですよね。

美しさとは?    玉田兵吾

(中略)自分から離れると、人は醜くなる。

自分自身に立ち戻ると、美しくなる。

美しさとは、勇気。

美しさとは、怯えない心。(同書11頁)

是非、みなさま、ご一読ください。自分自身に立ち戻る生き方がただ自然であること。自分ではない者のフリをしないで、ありのままの自分の生き方がどんなにストレスフリーなのことか。ただ、そういう生き方をしているだけなのに差別されている人がいる、すんなりと理解できる本です。

善了寺 坊守