善了寺では毎朝7時から朝のお勤めがあります。お勤めが終わったあと、仏様にお供えしたご飯、お仏飯(おぶっぱん)をお参りいただいたみなさんにお分けしています。実は、何気ない坊守(住職の連れあいです)の提案から始まったことなのですが、改めて、食べることを考える大切な文化であったと思いました。

こちらが「お仏飯」です

「朝のおつとめ」の後、みなさまにお分けしています。

私も経験がありますが、「お寺の子供は、お仏飯で育てられる」ということをよく言われていました。実際にその通りで、仏様にあげていただいたご飯を食べさせていただいて育ちます。これは何も、お寺のことだけではなく、ご家庭でもお仏壇にあげたお供え物をいただくという経験をお持ちの方もおられると思います。

このようにお供えしています。

そして今、私たちの生活の中で、食べることはどのように受け止められているでしょうか。京都大学の藤原辰史先生が、「『食べること』の救出に向けて『ナチスのキッチン』あとがきにかえて」というコラムの中で、第二次大戦下のドイツにおける収容所の囚人と戦時下の主婦のあり方を研究され、次のように表現さています。

「人間の中に台所を埋め込むこと」と「台所のなかに人間を埋め込むこと」――それぞれ台所の合理化を強制された囚人と主婦は、なるほどたしかに、まったく次元の異なる存在である。かたや国家の保護の外に置かれた人びと、かたや国家の保護の内にいた人びとである。しかしながら、わたしは、この両者のあり方に、近現代人が求めてきた食の機能主義の究極的な姿を認めざるをえない。どちらも、人間ではなくシステムを優先し、どちらも「食べること」という人類の基本的な文化行為をかぎりなく、「栄養摂取」に近づけているのだ
(藤原辰史『食べることを考えること』共和国刊,2014年,p.216)

この指摘は決して過去のことではないと思います。いつでも私たちの身近にある食のあり方ではないでしょうか。

仏さまからのいただきものとして、食べものを意味付けていく文化は、いのちの循環の合理化に向き合う大切な暮らしの要だと思いました。朝のお勤めで、みんなで、正信偈を読み、御文章をいただき、ご法話をいただいてから、お仏飯をお配りします。その時に、なんといえない敬いの表情でお仏飯を受け取ってくださいます。お参りのプロセスがお仏飯に集約されているのです。

それは、人間のいのちの合理化ではなく、み仏と共にあるいのちの循環に自分自身が位置付けられていく過程に生まれた文化なのだと思います。単なる「正しいからすべきこと」「もったいない」ではなく、自分のいのちが、大いなる循環のなかに位置付けられていく文化によって、「もったいない」を生み出すし合理化する近現代のシステムに気づくこと、実はここにエコな暮らしをつくる要があったのだと思います。