戸塚・善了寺では毎朝「朝のおつとめ」を、本堂で行なっています。「朝のおつとめ」では、住職から仏教に関するお話をさせていただいています。その時のお話を、ご紹介させていただきます。

「曇鸞大師様の御徳をたたえるからこそ、曇鸞大師様ために霊廟(お墓)を建てたられた」というご和讃がでてきます。

ここで味わいたいのは「阿弥陀如来様と親鸞様と蓮如様にご相談をさせていただき、ご縁をいただきながら建てるお墓って、どんなお墓かな?」と、いただく道があるという事です。

 

今、「終活」とか、色々な指標がありますが、お念仏をよりどころとしてお墓と向き合う。お墓は、お念仏のみ教えを頂き、前を歩かれた方々のご恩を味わさせていただく場です。

個人のお墓であれ、共同のお墓であれ、形は時代の中に変化しても、他力の信心をよりどころと頂く時、一つとして無用なものはありません。

すべて、私にお念仏のみ教えをおすすめくださる尊いご法縁の場なのです。死を合理化することは、生を合理化することに直結します。人生をすべて思い通り設計できるはずもありません。

 

人間ですから、良いことばかりではありません。

それでも、お念仏をいただいておりますと、必ず、前を歩かれた先人の様々な姿を真実信心をよりどころとして、良いことも悪いことも学びに変えて今を生き切る世界が、恵まれてまいります。

本当に恨みでしか見れないような人も必ず、転じられる。阿弥陀如来様のお念仏の功徳です。私の思い込みや理想論ではないのです。

 

それが、ありのままにいただくという事。私の価値観の限界を見つめることなく、凡夫だから仕方ないんだ、こんなもんだ。お墓もそのうち、無くなるんだ。

このような皮肉っぽくシニカルに人生を見るようなことは、蓮如様も親鸞様もされていません。

 

阿弥陀如来様の本願をよりどころに真摯に人間の苦悩を見つめ、どんな悪人も必ず救われると、曇鸞大師も、法然聖人も、親鸞さまも、蓮如さまもがおっしゃってくださっています。

そういうあたたかなご讃嘆の光が、ずっと続いて、私の上に、『南無阿弥陀仏』とお念仏となりて現れてくださっているのです。

このように私は、味わわせていただきました。

「朝のおつとめ」は、365日行なっています。
1日の始まりを、善了寺でのお参りからはじめてみませんか。
どなた様でもお参りいただけます。
どうぞお気軽にお越しください。

文:
横浜・戸塚
善了寺 坊守(※)
※「ぼうもり」と読みます。住職の連れあいです。
鎌倉時代から大切にされてきた言葉なんですよ。
時々つぶやきますので、優しくお付き合いください。