戸塚・善了寺では毎朝「朝のおつとめ」を、本堂で行なっています。もちろん、写真にあるような雪の日も開催しています。「朝のおつとめ」では、住職から仏教に関するお話をさせていただいています。その時のお話を、ご紹介させていただきます。

親鸞様にお育てをいただき、蓮如様にお導きをいただくという事が、浄土真宗のご門徒が大事に大事にしてきた姿でございます。

 

蓮如様は、御念珠を持たないでお参りをするのは、仏様を手づかみにしているようなものだと厳しくお示しくださいます。

しかし、大事なのは、他力の信心をいただいて浄土に参るという事が基本だから、お数珠を持つとか持たないとかによってお浄土に参る参らないが決まるわけでは、決してない。

けれども、他力の信心をよりどころにするという事は、阿弥陀如来様の仰せを仰せのままに頂いてゆくことが、人生の柱になる、よりどころになる、往生浄土の命をいま、生かされているのです。

 

凡夫が凡夫のままにと、申しますが、つねにその凡夫は、現生正定聚と申しますが、今まさに浄土に参るに間違いなく定まった仲間になるんだと、阿弥陀様の仰せとして、おっしゃっていただいているのです。

ありのままの凡夫は、阿弥陀如来様と共に歩む凡夫であるということを無視してしまいますと、凡夫が凡夫のままにという事が、自己中心的な受け止めになってしまいます。

 

私たちには、他力の信心をよりどろに、つねに阿弥陀如来様が、蓮如様が親鸞様が一緒におられる凡夫です。凡夫の姿に向き遇うままに阿弥陀如来様の大慈悲に抱かれているんですよと、そこが大切です。

 

阿弥陀如来様に抱かれともにあゆむという生活をいただいたときに蓮如様がお念珠を持ってないのは、仏様を手づかみにするようなものですよと、おっしゃってくださった……。

暮らしの中に生きる敬いの心をお示しくださる、とても優しい温かいお示しなのだと思います。そこには、生死を超えて、直線的な時間を超えて、今、親鸞さま、蓮如さま遇う世界が開かれていきます。

このように、私は、味わわせて、いただきました。

「朝のおつとめ」は、365日行なっています。
1日の始まりを、善了寺でのお参りからはじめてみませんか。
どなた様でもお参りいただけます。
どうぞお気軽にお越しください。

文:
横浜・戸塚
善了寺 坊守(※)
※「ぼうもり」と読みます。住職の連れあいです。
鎌倉時代から大切にされてきた言葉なんですよ。
時々つぶやきますので、優しくお付き合いください。