先日、誕生日を迎え「不惑の年だね」と声をかけて下さった方がおりました。後から知ったことによりますと、不惑とは四十歳のこと。「四十にして惑わず」という論語からの言葉でした。

論語の翻訳をみてみましょう。

 

「子(し)曰く、
吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(した)がう。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず」

【訳】
「先生がいわれた。
わたしは十五歳で学問を志し、三十歳になると、独立した立場を得た。四十歳になると、迷うことがなくなり、五十歳になると、人のいうことを素直に聞くことができるようになって、七十歳になると、思ったように振舞っても道を外れるということはなくなった。」

孔子が晩年になって人生を振り返った言葉として有名です。ここから十五歳を「志学(しがく)」、三十歳を「而立(じりつ)」、四十歳を「不惑(ふわく)」、五十歳を「知命(ちめい)」、六十歳を「耳順(じじゅん)」、七十歳を「従心(じゅうしん)」というようになったのです。

「眠れなくなるほど面白い 図解 論語」山口謡司 日本文芸社 2019

 

 

「論語」は、約2500年前、中国で儒教を説いた孔子の言葉を記したものです。中学や高校の国語でごく一部の言葉を習います。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」、「故(ふる)きを温めて新しきを知る」は日本のことわざのように扱われていますが、もともとは論語に出てきた言葉です。

年を重ねることで体力、記憶力などの能力については、ピークを越えていきます。一方、経験が増え応用力が高まったり、揺るぎない信念ができたりすることもあります。老いや衰えを否定的にとらえがちな風潮もありますが、孔子の言葉から、年齢とともに深まる境地があることを再発見できます。

私は四十を過ぎても相変わらず他人の意見に左右され、判断に迷います。不惑はハードルが高いですね。いくつになったら本当の不惑になれるのでしょうか。