明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは
介護の仕事をしていると、利用者さんとの心の交流が生まれ、それが仕事をする上での励みになります。ときには数年にわたる長いお付き合いもあり、
そうなるともう「利用者と職員」の域を越えて親戚・家族のような情がお互いに生まれたりもします。
しかし、のんびりと穏やかにいつまでもつづくように思われる日々も、いつか終わりがきます。
そしてそれは、往々にして、突然の永遠の別れという形で訪れます。
「まだ会えると思っていたのに」
「来週お見舞いにいくつもりだったのに」
「一緒にいきたい場所、やりたいことがあったのに」という、果たせなかったことへの後悔に
さいなまれることも多くありました。
そんなとき、住職のお話でであったのが、タイトルにある親鸞聖人のことばでした。
「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
「美しく咲いている桜を、明日も見れるだろうと思っていたら、
夜に嵐がきて散ってしまうかもしれない。
だからこそ今を精一杯大事に生きていこう、という意味ですよ」と。
90年以上を生き抜いてきたおばあさんが、ある日にっこりと笑って私に
「お友達になってくれてありがとう。いつお迎えが来るかわからないから、いまのうちに言っておくね」とあらためて伝えてくれたことがありました。
もしかしたらおばあさんも、長い人生で大切な人との永遠の別れをたくさん経験するうち、
伝えたいことは伝えられるうちに、後悔のないように。という思いを強くしていたのかもしれません。
桜の舞うこの時期に、毎年思い出すのはおばあさんの笑顔と、親鸞聖人のこのことばです。
「お寺」の介護現場で学んだ大切なことのひとつとして、
お別れや死について、怯えたり隠したりすることなく、まっすぐみつめ大切に思うことが
出会いや生きていることを見つめ直し、大切にすることにつながる。ということがあります。
それでは、また次回。お読みいただきありがとうございました。
この漫画の書き手:
喰代彩 (ほおじろあや)
横浜市出身、善了寺のデイサービス「還る家ともに」で介護士として働いていました。
現在は香川県・小豆島にIターン移住して4年目、二児を育てながら島の暮らしと
善了寺デイサービスの思い出について書いています。