落語って江戸時代の暮らしを感じさせてくれますよね

日暮から学ぶことはひとを大切にすること


善了寺には、「ぼちぼち亭」という落語会があります。私も古今亭菊千代師匠にお稽古をつけていただき、皆さんとご一緒に落語の文化を学んでいます。春と秋に発表会もかねて、落語会を開いています。住職の趣味と思われがちなんですが・・・。(そういう面もあります)実は、笑いの中にたくさんの学びがあります。「私たちの文明が進んでいて、江戸時代は遅れている。」という単純な感覚からは、なかなか学びは生まれてこないのではないかと思います。同じ人間として、様々な喜びも悲しみもあったのではないだろうかと、生活そのものに心を寄せていくとき、すてきな学びが恵まれるのではないでしょうか。

現代生活の当たり前を問い直す

私たちはあまりにも現代生活の感覚を当たり前と思い込みすぎているのではないでしょうか。違う見方もあるのだと気づかされていく一つのきっかけとして、落語の文化はとっても奥が深いと思います。特に、笑いを大事にしていることが大切だと思うのです。いのちを慈しむ笑いは、こころをやわらげてくれます。柔らかい心を育てるのだと思います。落語の文化にもそれこそ、現代から問いなおさなければならないこともたくさんあります。江戸時代の差別の現実など、真向かいにならなければなりません。だからこそ、それぞれの時代を単純な優劣ではなく、生活の中から学び合うことが大切ではないかと思います。

夕日を眺めることってありますか

時間を管理するのではなく、自然と共に時間を受け止めていく感性は、私たちに大切なことを気付かせてくれるのではないでしょうか。日ごろの生活の中で、夕日をながめることってありますか?時間は時間として自然と別にあるのではなく、自然の営みそのものが時間だった。それは、自然そのものである私たちの生活のあり方そのものが時間だったということではないでしょうか。私が時間に流されているのではなく、私の生活こそが時間を生み出しているのだと思います。時代を超えて、取り戻したい感覚ではないでしょうか。

西に日が沈むことを味わう感性~死を想うこと~

西に日が沈むとき、先人の方々はそこに、死を想うことを大事にしていました。死を想う時間を日暮の中に持っていたということです。時間を管理する感覚にとらわれている私たちは、死を想う時を日常の中で持ち得ているのでしょうか?いつまでも終わることのないテレビ、メディアに振り回される昼夜逆転の時間感覚・・・。いつの間にか、いつまでもこの状態が続くのではないだろうかという「不老不死」という感覚に惑わされていないでしょうか。夕日と共に死を想う時、それは、直線的な不老不死という感覚ではないと思うのです。変化を受け止めながらも、断絶ではなく、朝日と共に、新しい生を受け止めていく、いのちがめぐっているという感覚を生活実感の中で育んでいったのではないでしょうか。

いのちの循環を感じるからこそ、「シンプルでゆるい江戸時代の時間感覚」が育まれたのではないだろうか

時間を管理するという感覚は、一分一秒という直線的な感覚で時間が刻まれていきます。しかし、生活は一筋縄ではいきませんね。スケジュール通りに1日が終われば本当に素晴らしいありがたい日であったと感謝するばかりです。肌で感じる時間のあり方をもう一度取り戻したいものです。いのちは循環している。直線的にすべてが成り立っているのでは決してありません。後ろ向きになることだってたくさんあると思います。でもその時間は決して孤立しているのではありません。時間もまた循環の中に深められていくだと思います。

憧れではなく、ご一緒に学んでいきましょう。そして、生活の中にほんのちょっと実践してみたいと思います。できることから、私は、まず、朝のお勤めを大事にしたいと思います。