前のホームステイの記事でご紹介したカナダから学生さんたちは、とても宗教的に真摯な方たちでした。その上で、ホームスティを大事にしてくれていました。

一人はイスラム教、一人はカトリックの方です。原理主義的な感覚であれば、お寺でのホームスティが分かった時点で、断ってもよかった。現地で気づいてからでもいくらでも変更は可能でした。しかし、彼らはホームスティ先を変更しませんでした。

「朝のおつとめ」、どうする?

お寺には、朝のおつとめがあります。実は、浄土真宗本願寺派は海外にもお寺があるので、英語のお経本があります。あらかじめ、取り寄せておきました。宗教的に真摯な姿勢を感じていたので、わたしとしては、参拝は自主性に任せようと思っていました。

「朝のおつとめは、どうする?」と声をかけたところ、「ブディストのお寺にホームステイすることなんて、貴重な体験なので、是非お参りさせてください」と朝のおつとめに二人ともお参りしてくれました。

取り寄せたお経本は、ローマ字表記なので、一緒に読むことができます。お正信偈を頂きます。「ki myo mu ryo ju nyo rai」はじめはたどたどしかったお経も最後には「na mo a mi dan bu」と六首引きまで一緒にお参りしてくれました。有難い姿でした。

みなさんからの驚きの声

驚いたのは、この話を法事のご法話でさせて頂いたときの、お参りの方のリアクションです。法事は、多世代でお参りいただけるので、カナダの高校生と同じ年代の方もおられます。イスラム教・キリスト教・仏教と日本から見た世界三大宗教というのは、知識としては分かります。

しかし、報道など世間で言われる一方的なイメージで宗教をみてしまうので、自分たちと同じ、お念仏を申し、お参りしているということが驚きだったようです。

仏事は「暮らし」そのもの

暮しから学ぶのがホームスティですよね。単なる観光とは少し視点が違います。だからこそ、お参りにも参加してくれたのかもしれません。ならば、宗教の違いを尊重する基盤は、暮しに学ぶことにあるのではないでしょうか?

一人ひとりが暮らしを粗末にしない。仏事は、非日常ではなく「暮らし」そのものなのです。彼らの暮らしには、イスラム教・キリスト教が生きている、お寺の暮らし、ご門徒お一人おひとりの暮らしには浄土真宗の教えが生きている。お互いの暮しを大事にすることはお互いの信仰を粗末にしないことと一つになっている。そんな気づきに恵まれました。

お参りのこころは、日暮をつくるこころ。日常と非日常とあまりにも、極端に分断することで見失うことがたくさんあると教えていただきました。