住職の二男が所属する部活動の高校三年生が引退されました。それに当たり、9人の高校生がお寺で宿泊し(と言っても、朝の4時まで大騒ぎ)、「朝のおつとめ」にお参りをしてくれました。そして、その時の住職のお話に、真剣に耳を傾けていました。

その時のお話をご紹介させていただきます。

これから、また新たな人生を歩んでゆく時に、『勝つ』という言葉に遇う事があるでしょう。『勝つ』とは、『全ての人々が救われなければ私の幸せはないという考え方』という仏教の考えとは、真逆の考え方ではないでしょうか。仏教の教えの中で次のようにたとえて説かれています。

ある村にお寺が2件あったそうです。1つのお寺の住職さんは、ものすごく一生懸命修行をされて、鍛えて鍛えまくって自分が立派になって、人々を救っていこうという道を真剣に歩んでいた方でした。

もう一方のお寺の住職さんは、みんなと一緒にどうやって暮らしていくべきかを、いつも考えている人でしたから、田植えを手伝ったり土木工事を手伝ったり、という事を一生懸命されていたお坊さんでした。

ある時、その村で、どちらのお坊さんが勝れているのかという話になり、それを決めるときに、グラグラと煮えたぎったお湯が入っている大きな鍋に入れた方が勝れているという事にしようと、いう事になりました。

人間が入れないような熱いお湯の中に、体を鍛えまくった特殊能力のあるお坊さんは、顔を真っ赤にしながら入り、何もなかったかのようにすっと出てきました。それを見ていた村人たちは「これはすごいお坊さんだ」と大喝采大拍手で、さすがこのお坊さんの勝ちは決まったと思っていました。

もう一人のいつも体を鍛えているわけではない方のお坊さんは、鍋の近くに来て、「水を持ってきてください」と、村人に言われたので、その水を頭にかけてから入るんだろうなと誰もが予想していたのですが、その桶の水をお湯の中に入れてグラグラわいていたお湯を人が入れるくらいの丁度良い温度にして「いいお湯が沸いたぞ。みんなで入ろう」と言われたのだそうです。

『勝つ』ということはどういう事なのかを考えていく大きなヒントになっていると思います。『勝ち続けなければいけない』と言われるかもしれません。でも、ホントに『勝つ』ってどういうことなのかと、立ち止まって考えられる場を持っていることは、人生にとって大きなよりどころになることです。こうして引退という人生の節目に、仏様にお参りすることができたことは大きな意味あることであったと思います。

「朝のおつとめ」は、365日行なっています。1日の始まりを、善了寺でのお参りからはじめてみませんか。どなた様でもお参りいただけます。
どうぞお気軽にお越しください。

文:横浜戸塚・善了寺 坊守(※)
※「ぼうもり」と読みます。住職の連れあいです。
鎌倉時代から大切にされてきた言葉なんですよ。
時々つぶやきますので、優しくお付き合いください。