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2013年6月、世界文化遺産に登録された富士山。日本一の高さを誇る美しい富士山に魅せられ、世界各地から毎年30万人前後の登山者が訪れています。この富士登山、大衆化がはじまったのは江戸時代にまでさかのぼるのをご存じですか?当時、富士山をお参りする登山グループ「富士講」が爆発的なブームとなり、江戸っ子は「富士講」というコミュニティでつながった仲間と連れ立って “一生の思い出作り”に日本最高峰を目指しました。

民衆に開かれた「富士講」のはじまり

富士山が噴火していたその昔、人びとは激しく吹き上げる炎を遠くから眺め、そこに怒る神の姿を重ねていました。なかでも864年(貞観6年)に起こった噴火は大規模で、流れ出した溶岩が人びとの命や家屋を次々に脅かします。この噴火を沈めようと建てたのが、富士山をご神体とする浅間神社と言われています

長い祈りが通じ、1083年(永保3年)に噴火活動はおさまりました。その後、富士山の力を得ようと、修験者らが山中に足を踏み入れるように。15〜16世紀になると、修験者に引率されて一般の民衆も登頂しはじめます。

ですが、時は歩く以外に交通手段のない時代。江戸から富士山の頂上を目指すのは容易なことではありません。天候の良い日でも、江戸から冨士山北口(吉田口)までは健脚者でも3日間、そこからから頂上までは最短でも往復に2日間、合計8日間の旅。とてつもない費用と時間がかかることから、代表者に祈願を託す登山グループ「富士講」が誕生しました。

異業種が集う富士講の集会では相談事もしばしば

「富士を拝み、富士山霊に帰依し心願を唱え、報恩感謝する」というわかりやすい教えが広まり、富士講は瞬く間に江戸に広がっていきます。「江戸八百八講 講中八万人」と例えられるくらい、江戸にはたくさんの富士講があり、大勢のメンバーがいました。富士講は、富士山に7度以上登った行者でグループの代表格である先達、財務面を管理する講元、そして連絡係や集金などの雑務を行う世話人などで構成。富士登山には高額な費用が必要だったので、メンバーから月々集金して毎年メンバーの5分の1を登山させるというシステムをとっていました。

富士登山を目的に結成された富士講ですが、地域のコミュニティ的な要素も担っていました。毎月定期的に行っていた夜の集会では、登山について話し合うだけでなく、日常生活の相談事などもしばしば。先達もメンバーも宗教を職業とする人でなく、それぞれが生業を持っていたので、仲間のように気楽な相談ができたのかもしれません。

富士登山は行楽的な要素が強かった!?

富士山への登拝は、人びとにとって、体力の面でも気力の面でも限界にまで挑む厳しい体験でした。同時に、山登りまでの長い道中、仲間たちと美しい風景や珍しい名物を味わう楽しい旅でもありました。 娯楽の少なかった当時、“信心半分、物見遊山半分”のような旅行サークル的要素も強かったのでしょう。陸では街道や宿駅、海では港や航路などの交通機関が整えられ、人々がいろいろなところへ行くことが可能になった江戸時代。とはいえ、一般の庶民が現在のように自由に旅することは許されていなかったので、“お参り”を目的にして、富士登山をはじめ、お伊勢参りや金毘羅参り、大山へと出かけていました。当時の人びとはこうやって日常生活から離れ、うまくリフレッシュしていたのかもしれません。

富士講を通した人びとの交流やふれあい

当時の富士講ブームで、江戸市内にはミニチュア版の富士塚がたくさん作られ、世界的にも有名な葛飾北斎の『冨嶽三十六景』が描かれるきっかけになったと言われています。江戸時代に一大ブームを起こした富士講。その背景にあった人々の交流やふれあいを思い浮かべながら、偉大な富士山を改めて眺めてみると、なかなか感慨深いものがあるのではないでしょうか。

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