先日、善了寺で講演してくださった東京工業大学の中島岳志先生には昼間は本堂で講演していただき、夜は善了寺の境内にある「カフェゆっくり堂」にて、明治学院大学の辻信一先生と対談のイベントにも登壇していただきました(写真は、その時のものです)。

本当に学びの多い、ありがたい一日となりました。

講演の少し前に、本願寺出版から出された「季刊せいてん」に中島先生がコラムを書かれていました。少し抜粋させていただきます。

私は「となりの親鸞」という言葉を、これまでも頻繁に使ってきました。親鸞のことを考える際、この言葉が一番しっくりときます。

親鸞は遥か彼方の手の届かないところにいる聖人というよりも、悩める時にそっと寄り添ってくれる隣人のような存在だからです。自分がちょっと思い上がった心持ちになっているときには、『歎異抄』を開いて、親鸞と対話するようにします。

『歎異抄』は、親鸞の姿を身近に感じることのできる大切な一冊です。

(『季刊 せいてん』129号6頁)

お人柄があらわれる文章ですね。先日、ご一緒させていただいて、あらためて感じます。

親鸞さまは鎌倉時代に生きられた方です。もうとっくに亡くなっています。そんな昔のかたと「対話する?本を読んでいるだけじゃないの?」という意見もあるかもしれません。

しかし、私は、ここに豊な対話の可能性としての死生観が大切なのだと思います。「死んでしまったらそれでおしまい……」では、決して対話は生まれませんよね。

死をも超えて、ともに聴き合い、共に学び、ともに今を歩む。単なる過去の人ではなく先人の皆さんは、「仏事」の中で豊かな対話の世界を伝えてくださいました。

是非、御法事を大切になさってください。「仏事」は豊な対話を育むご縁なのです。