先日、早稲田大学 大日方純夫(おびなた すみお)先生をお迎えして、聞思堂で、近代150年を考える勉強会がありました。

善了寺の駐車場には明治時代 明允学舎(めいいんがくしゃ)という分校がありました。その分校で、戸塚の自由民権運動の結社である友文会が、1881年〜1882年にかけて、定期的に演説会を開いているという記録があります。

ちょうど、明治150年という節目に学び直してみたいと思っていました。不思議なご縁で、大日方先生に出遇うことができました。心から感謝申し上げます。

 

お寺で歴史を学ぶ意味を考えてみたいと思います。「場所」にはそれぞれ、願いがあるのだと思います。それは、「なんの為に」建てられているかということを「聴く」ところから始まっていくのだと思います。

私たちは、「今」学ぶことの一歩を、どのように踏み出しているのでしょうか。様々なきっかけがあると思います。ひょっとしたら、いつでも学べる、どこでも学べると思っているかもしれせんね。

だからこそ、「初めの一歩」を大切にしたいと思うのです。何故なら、私は社会と切り離されて生きることができないからです。学びそのものが社会のあり方に大きな影響を受けています。

「なんの為に」学ぶのか。世界と切り離すことなく成り立っている自分自身の心の声(関わることから生まれてくる言葉)にきちんと耳をすますことが大切だと思います。

 

「聴く」ことは、私が自分の価値観を押し付けることではありません。お寺は特に、先に歩かれた方々、亡くなった方々との出遇いを大切にする場所です。亡くなった方とどのように「今を共に生きるのか」というテーマは、生きることに追われてしまうとなかなか考えることができないですね。

そして、生と死を切り離して捉えることに慣れてしまうと、亡くなった方は、今の生活に影響を与えないと思い込んでしまいます。自分の生活に関係ないものは、関わらない。いや、関わることができない。

私は自分の人生の選択として、亡くなった方々と関わらないと選んでいるのでしょうか?むしろ、現代社会において選択肢を失っているのではないでしょうか?

 

善了寺は、阿弥陀如来さまの願いを要として成り立っています。阿弥陀如来さまは、社会に振り回され苦悩を抱える「私のために」おられます。「私のために」向き合ってくださる。ここから、お寺の活動が始まっているのです。

「私のために」という言葉を、疑うことで、今の世間は成り立っていますよね。むしろ、「疑うこと」がコミュニケーションの第一歩になってしまう。「疑う」ための学びとは、自分に鎧をまとっていくような学びになっていないでしょうか。

 

歴史は、亡くなった方々と今遇い、今を共に生きることによって、豊かな学びを恵与えてくださいます。私たちが死をどのように受け止めいているのかという、いのちの受け止めと一つになっているです。

阿弥陀如来さまの願いを揺るぎない要とする、お寺は、亡くなった方々を過去に押し込めるのではなく、私を苦悩から救うために、み仏と同じ悟りを開き「私のために」共に今歩んでくださると受け止めていくことのできる場所なのです。

大日方先生をお迎えしての勉強会については、下記のURLでも書かせていただきました。よろしければご覧ください。
http://www.chadeau.com/18073003