毎月一回、戸塚を中心にした介護に関係する多職種の方で集い「介護リハビリ研究会」が開催されています。

その研究会で年一回行われる研究発表会が7月14日(土)に開催されました。

善了寺のデイサービス「還る家ともに」も、昨年に引きつづき発表させていただきました。

今回は、その内容をアップさせていただきます。
お付き合いいただければ幸いです。

終末期の通所介護利用を通して

宗教法人善了寺デイサービス還る家ともに
管理者 三根周

デイが開所してから約13年お寺のデイサービスとして、直接の利用の有無にかかわらず「生きづらさ」を様々に抱えた方々がここを居場所としてきました。

デイサービスとして支援するだけでなく、地域のボランティアやお寺のお檀家・ご利用の方々・ご家族など多くの皆様に多くの場面で支縁され(縁を支えられ)、ともに過ごしてきました。

ときには、終末期をご自宅で過ごしながらデイに通われる方々もおられました。利用しながらだんだんと終末期へ移行していく方もいれば、家庭的な雰囲気で穏やかに過ごさせてあげたいという家族の想いから終末期になってから利用を開始する方もいらっしゃいました。中には、終末期になり他のデイでは、「体調が安定しないから」との理由で利用を断られながらも、善了寺には亡くなる2日前まで通い続けた方もいらっしゃいました。

終末期の方を受け入れる際、僕たちはただ介護保険制度の通所介護として利用していただくだけではなく、送迎の前後や休憩時間などに、お見舞いと称しご自宅に伺います。ご本人の名前を呼んで体をさわって声掛けしながら、ご家族とお話させていただきます。また、ご家族の身体的・精神的負担を軽減出来れば、と食事介助・排泄介助なども行います。

何故そこまでするのか?しなくてはならないのか?という部分を考察していきたいと思います。

 

厚生労働省のすすめる地域包括ケアシステムの中では「重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後までできるよう」とうたわれています。制度やシステムが完璧であるならば、僕たちがそこまでする必要ないのかもしれません。

ただ現状では、介護する家族は核家族での老々介護が多く、家族の介護力を上げるために、作業療法士が自宅へ伺い家族に介護技術の指導をすることもありましたが、限界は見えていました。

訪問系サービスの導入があったとしても部分的で、家族の心理状態として「死を受け入れる事」への不安や怖さを抱えている方をたくさん見てきました。デイをご利用いただいてきた中で築いてきた関係性とその情動に突き動かされ、僕たちは動かずにはいられなかったのです。なので、制度が整ったら「しないのか」というと、それは違うと思います。

 

単身世帯割合が急増し、地域の中での関係が希薄化している現在において、いかに地域で終末を支えるか。

ガンジーの言葉に「近隣のために尽くす人は同時に人類の為に尽くしている」というものがあります。

事業所として地域と繋がりながら、「〇〇さん」という固有名詞の関係の中で「老い」をともに見つめ、ともに受け止め、時には制度を超えて「情動」を大切にみんなで「暮らし」を支えていく事が必要なのではないでしょうか。

最後に、終末を迎える場所は施設か?病院か?自宅か?何処がいいか、といった話を伺うことが度々あります。僕たちは自宅での終末期のケアのサポートを行ってきましたが、ご利用者が入院されている際は病院に足を運ぶことも度々あります。

お見舞いに行って数時間後に息を引き取られた方もいれば、お見舞いの最中に往生された方もいらっしゃいました。そこで感じたのは、終末を迎える場所はどこがいいかということではなく、「最後までどう自分らしくあれるか」が大切で、そこが保たれているならば場所は何処でも構わない、ということでした。

一方、自宅で週末を過ごす際、在宅介護では介護保険施設や病院のようにそこだけで抱え込まずに、本人・家族の想いを尊重しながら訪問診療や訪問看護・訪問介護などいろいろな人が関わり、多くの視点や価値観の中で多くの人が関わることが出来、ケアを抱え込まずみんなで分かち合え、大切なことだなとも感じました。