先日、辻信一先生とブータンの山奥にあるチモン村へ行って、多くの学びをいただいてきました。その際に考えたこと等を書かせていただきます。

チモン村の皆さんに暖かく迎えていただき、本当に心温まる歓迎の中で、たくさんの学びをいただきました。今回の旅のテーマは「伝統を考える」ということでした。特に、伝統とは、亡き人と切り離して考えることはできません。その意味でも、今回チモン村の火葬場を見せていただくことができたのは大変貴重な体験でした。

チモン村では、火葬にしてから川に、御遺骨を流します。その背景には、みんな、いのちの循環に還っていくという大切な捉え方があります。自然に還るという感覚は、生まれかわるという感覚と一つになっているので、死が断絶になっていないというところに大切ないのちの捉え方があると思います。

チモン村の火葬場は、お一人づつ、木材を組んで行います。私たちの火葬の感覚とはかなり違います。火葬をしている間、一晩ちゃんと見守る小屋があります。現地にお伺いした時思い浮かんだのは、御文章の一節です。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。

まさに、蓮如上人が御文章をお書きになった15世紀後半の時代を訪ねているかのようでした。

チモン村の火葬場

私が「実際、大変ですね」というような都会的感覚で、現地の方の話を聞いていると、「煙が上がっているのを見ると大空に還っていくような気がする」という感想を聞かせてくださいました。

そうだ、この感性こそが、伝統に育てられたものであり、伝統を支えているものなのだと思いました。この生と死を分け隔てすることなく、亡くなった人もいつもそばにいる感覚は、近現代の生老病死を分断化し、合理化する社会の中で、失われているものではないか、と思いました。

都市化による人口の集中は、私たちの暮らしに大きな影響を与えてきました。人のつながりや、いのちよりもシステムを優先させてしまう社会です。しかし、昔に戻ることも、ブータンになることもできません。

むしろ、都市部の火葬は今後もっと合理化され、システム化されていくことでしょう。だからこそ、そのシステムの中に組み込まれていることに自覚的になることが大切だと思うのです。システムを優先させるのではなく、一人ひとりのいのちとちゃんと向き合う場をつくっていくこと。私たちの暮らしの文化が問われています。

経典には、「命濁(みょうじょく)」という言葉があります。煩悩に迷う世の中のあり様を示す言葉です。命が短くなるということです。

「人生120年時代」と言われる現代においては、命が短くなるのではなく、長くなっているとご指摘をいただきそうですが、チモン村の学びから、生と死を分断化することによって命の捉え方が短くなっているのではないと思いました。「終活」という言葉一つ見ても感じますね。

死を人生の終わりと決めつけていく言葉ではないでしょうか。私たち一人ひとりが考え直す、たくさんの学びがブータンの火葬場にはありました