こんにちは。

私は2019年4月から瀬戸内海の離島、小豆島で暮らしています。夫と子ども2人と横浜から移住してきました。ここでは島暮らしの日々をお届けします。

今回は、小豆島のおとなりにある豊島(てしま)にある、豊島美術館についてお届けします。

美術館と聞くと、どんなイメージがわきますか?大抵の場合、四角い建物のなかに額縁に入った絵画が展示されている様子を思い浮かべると思います。

私は美術館巡りが好きで、横浜にいた頃はよく美術館へ足を運んでいました。

横浜美術館、六本木にある国立新美術館、上野の国立西洋美術館、箱根にあるポーラ美術館もとても好きで、移住してからのはじめての遠出は岡山の倉敷にある大原美術館でした。

今後子どもたちが大きくなって都会に遊びに行く機会があれば、積極的に美術館につれていきたいと思っています。都会にある優れた文化資本というものに触れさせてあげたいと思うからです。海外からの有名な作品は基本的に都市部しか巡回しないので、地方の離島にいると、なかなか触れる機会がありません。

 

しかし瀬戸内には、都会とはまた違った形での、他にはない優れた文化資本がしっかりと根付いていました。

草間彌生のかぼちゃのオブジェや安藤忠雄の設計による地中美術館により、直島は「アートの島」として世界的に有名になりました。

今も3年に1度、瀬戸内国際芸術祭が瀬戸内の島々を舞台に開かれています。民家や廃校、海辺や山の中といった風景のなかで作品が展開され、訪れる人々の鑑賞体験は強く心に残るものになっています。

そんな中、豊島に2010年に開館した豊島美術館も、訪れた人々から好評を博しています。

私も小豆島に移住してすぐの頃から、おとなりの豊島にある一風変わった美術館がずっと気になっていました。

 

写真で見る限り、小高い丘の上に白くて丸い、穴の空いたコンクリートの造形物があるだけ。

絵画は一枚もなく、どうやら床から水が湧き出てゆっくりと流れ、夕方には大きな泉になるという不思議な美術館らしい。といくつかの写真で知りましたが、実際どういうことなのか?

興味をもってから3年越しに、先日訪れる機会を持ちました。

 

唐櫃(からと)という小さな港からてくてく歩き、穏やかな太陽の光を浴びながらしばらく坂を上りました。暑いなーと上着をぬぎ、しんどいなーと水筒のお茶をのみ、ちょうどいいくらいの疲れがきたころに、ふと見るといつのまにか到着していました。

 

島の棚田が一望できる小高い丘の上にある、

絵が一枚もない、でも世界一と称されることもある、不思議な美術館。

 

チケット買ったらぐるりと美術館までのアプローチを歩いて、島の木々や海を一望できる道を通りました。そのさきに待っていたスタッフのお姉さんに靴をぬぐよう促され、備え付けのふわふわのスリッパをはいて、なめらかなドーム状の美術館の、ひみつの入口みたいなとこからそうっと入りました。

 

 

足を踏み入れたときの私の第一印象は、

えっ…うそでしょ!? でした。

そのつぎにじわーっと涙があふれてくるような、ふだんあまり表にでてこない、なんとも言葉にできない感情が胸元に熱くこみあげてくるような感覚がありました。

先に鑑賞されている方々が数人いましたが、静かに人々が見つめるさきには、

のびのびと動く水滴がありました。

美術館内の、じめんのうえで、どこからか生まれた、ビー玉くらいの水滴のたまが、わずかに傾斜がついたコンクリートのうえを動いていて

のびーーーーっとのびたり、じわーーーーっと小さな穴から生まれたり

ぽつん、と隣の水滴と合体したり、大きな水溜りに、意思を持っているかのようにしゅしゅーーっと流れ星のような軌跡を残しながらためらいもなく飛び込んでいく様子が静かに静かに展開していました。

ざっくりいえば、ほんとうに作品はそれだけでした。

それをただ、遠くからきた大人たちがわざわざ船乗って丘の上まできて、ふわふわのスリッパにはきかえて、黙ってただ見ているという光景があったのです。

きゅうにSF小説のなかに入り込んでしまったような非現実感がありました。

 

 

 

天井には大きな穴があいており、そこから虫や鳥の声がひびいてきて、光がさしたりかげがさしたり、ゆっくりと雲が流れ、風がふきこみ、備え付けてあるリボンがゆれたりしています。

絵画は一枚もなく、ただ空間があるだけ。一見何も鑑賞するものがないように見えますが、

ずっとその空間にいると、だんだん心がしんとしてきて、目にはいるもの、耳にはいるもの、肌でかんじるもの、すべてが鑑賞の対象になっていきます。

しゃがんで水滴の一生を見たり、開口部を見上げて光のグラデーションを感じたり、宇宙や生命、芸術や循環することの意味についてぼんやり想いをめぐらせ、一時間くらいひたすらずーっと、水が生まれて動いて大きいところに溶けていく運動を見ていました。

 

外からたまたま入り込んだ一枚の葉っぱや小さな一匹の虫が白いコンクリートの空間にぽつんと居る光景は、宇宙のなかに存在する生命の象徴のように思えて、その造形は唯一のものであり、その存在は美しいな、と感じられました。

そのうちに、知らず知らず忙しい日常のなかで疲弊していた心が修復していくような感覚がありました。生産活動、経済活動しているだけで心の一角が高野豆腐のようにカスカスに固まってしまうことは誰にでもあると思います。

いちいち開いていたら疲れるからと、ふだん封じている繊細な感覚を、ないほうが楽なんじゃないかと否定しがちな感情の一部分を、この場所では肯定され称賛されているような気がしました。

 

豊島美術館のこの建物は西沢立衛という建築家が設計し、なかに展開されている水滴を中心としたこの作品は内藤礼というアーティストによるもので、「母型」と名付けられています。

このアーティスト・内藤礼の活動のテーマは「地上に存在することは、それ自体、祝福であるのか」ということだそうで、

個人的な意見ですが、その主題の答えがしみじみと「yes」であると、この美術館に佇んでいるときに身体の内側から体感しました。

 

        ここにいる、私の命も、それ自体祝福である。

 

大袈裟に言えばそんなような大きな肯定感に包まれて、そこにある水滴の集まりがだんだんと心のなかにも入り込んで、ひたひたと満たされるような気持ちになり、その場をあとにしました。

 

美術館を出たあとも、丘のうえの小道は続き、豊島の風景をぎゅっと凝縮したような棚田と海が一望できる丘にはあたたかな日差しが降り注いでいます。

 

 

建物を出たら終わり、というきっぱりと区切られた鑑賞体験ではなく、木漏れ日のしたに座ってしばらくぼーっとしていた時間も、そのあと丘を下って船にのり帰っていく道のりも、ずっと美術館にいたときの感覚が続いていました。

きっと訪れる季節や時間帯によって、作品はどんどんと形を変え、命を持ったかのように動き続けているのだと思います。

 

 

何度訪れても、誰がどんなに遠くから来ても、ひとりひとりが祝福を自分の内側に感じ、

豊島の景色とともに心に持ち帰ることができるというところが、

この美術館が稀有な存在として称賛される理由なのではないかと思いました。

 

 

参考書籍  

美術館ができるまで 佐々木良著 啓文社  

空を見てよかった 内藤礼著 新潮社 

 

豊島美術館ウェブサイト

https://benesse-artsite.jp/art/teshima-artmuseum.html

 

 

書き手・写真 :

喰代彩 (ほおじろあや)

横浜市出身、善了寺のデイサービス「還る家ともに」で介護士として働いていました。現在は小豆島にIターン移住して三年目、二児を育てながら島の暮らしについて書いています。