令和6年1月1日午後4時10分、最大震度7を計測する能登半島地震が発災。あれから5ヶ月が経とうとしていますが、未だに避難所生活を余儀なくされている人たちがいます。
5月下旬、石川県内で最大級の避難所である輪島中学校に、炊き出しボランティアとして5日間滞在してきましたので、そのご報告です。

能登半島の北西に位置する輪島市は人口約2万人、北を海に面し、なだらかな里山を三方に配した自然豊かな町です。世界農業遺産に指定されている山海の恵みのほか、伝統工芸品である輪島塗りや名物の輪島朝市といった観光資源もあります。輪島港の近隣には、昔ながらの家屋を活かした町並みが保存されていました。結果的にそれらの古い木造の建物が倒壊や全焼の形となってしまったのですが…。

 

〇輪島市内の今

撤去が進まない市街地

崩れたままの家屋

旧輪島駅舎から輪島港前にある朝市へと向かう一帯は、市内でも建物の損壊が著しいエリアです。黒い瓦屋根の古い家屋は軒並みひしゃげたり崩れたりしています。そんな家が5ヶ月経った今も、撤去されないまま取り残され、震度7の破壊力を物語っています。
一方、全焼した朝市通りは、関東大震災の後はこうだったのかもしれないと思うほど何も残っていません。火災の熱に耐えたのは陶器類と車の金属部分だけ。それらが数か月もの間、野ざらしになっています。

流通の要となる幹線道路は、徐行すれば自動車が通れるレベルに修繕されています。ガタガタ、ガコンと隆起した道路の衝撃は来るものの、軽自動車でもなんとか市内を移動できています。幹線以外と判断された道は、深い亀裂が走ったまま、マンホールや石畳が浮いたまま、瓦礫が散乱したまま、手つかずになっています。

ゆがむコンクリート

もっと撤去が進んでいてもおかしくないと思いましたが、道路・インフラ等の修繕、仮設住宅の建設と同時進行にはできない理由があるのでしょうか。5月末に再び公費解体の説明会があるようでした。

 

〇避難所生活の今

体育館に並ぶテント

ダンボールベッド

避難所生活者が県内で一番多い輪島市。その中でも一番収容人数が多いのが輪島中学校です。

体育館横に停められたトイレカーが初期の避難生活を彷彿とさせます。発災直後、一番困ったのがトイレの処理だったといいます。今は室内の水洗トイレも使えるようになっていますが、数に限りがあるためトイレカーも残っています。

輪島中学校では、市内の6つの小学校と合同で校舎を利用する形で、4月から授業が再開しています。
その傍ら、被災者は体育館に身を寄せ続けています。二畳分ほどのテントの中に段ボールベッドが一人一台ずつ用意されていました。ご家族でテントを寄せて中庭のようなものを作っている世帯もありました。所狭しと並べられていたテントはピーク時よりも減ったそうです。

奥能登では、未だ上下水道の復旧を待つ世帯があります。けれど、避難所になっている学校は優先的にインフラが復旧しました。電気、上下水道が通っています。数は少ないけれど、予約制で使えるシャワー・洗濯機・乾燥機も設置されていました。驚いたのは、共有のフリーWi-Fi、スマホの充電スポットも用意されていたことです。確かに生活必需品です。
もっと寒い頃は石油ストーブの匂いが体育館内に籠っていたそうですが、今は適度に清潔が保たれていて、汚物や体臭や生活臭も気になりませんでした。それもそのはず、朝は体育館の床掃除に始まり、トイレ掃除も当番制でまわってきます。洗面や歯磨きなど、つまりの原因になりそうなことは、校庭横の水道ですることになっていました。真冬や悪天候の折は、外まで出ていくのが身に応えたといいます。

水場や出入口で行き交えば自然に挨拶をする。整理整頓、掃除の励行。寄せ集めの避難所で、
こういうことを共有できるのがとても気持ちよく、日本人らしいと思いました。

吹きさらしの水道にて

〇炊き出しを担う人々

炊き出し調理

手作りの食事

校庭の片隅に建てられた野営テントでは、昼90食、夜165食を提供していました。
輪島は海を渡る風が遮られずに届くので、一日中強い風が吹いています。テントの幕である程度緩衝されるとはいえ、調理場は雨風や寒暖差の影響をもろに受けます。風に煽られてコンロの火が消えることもしばしばありました。キャンプ場にある野外炊事場より条件が悪いくらいです。そこへ崩れたお店から引っ張り出してきた調理台や調理器具を持ち込むところから、炊き出しは始まったそうです。
避難所の炊き出しを支えているのは数名の地元の料理人さん達でした。ご自身も被災され、店も自宅もつぶれ、車中泊等をしながら校庭の調理場に通われています。ご家族は金沢や大阪に避難されたそうですが、自分たちだけは輪島に残ることを選びました。「特別なことはしてない。自分にできることを、やりたいと思ったからやっているだけ」と仰います。
食材は支援物資として送られたもの、一部再開している地域の商店等から購入したものを組み合わせ、栄養面に気を使ってできるだけ新鮮なものを、できるだけロスがないように、また同じものが続いて食べる人が飽きないように、気を使って献立を考えていました。開始当初の費用は完全に個人の持ち出しで、次いでNPO団体等からの援助が始まり、後追いで行政からも一部経費が出るようになったそうです。

 

〇課題 心のケアを続ける必要性

でこぼこの道を注意深く避けながら、子どもたちは学校へ向かう坂道を歩いていきます。時間が止まったままの町並みを残して、季節はめぐり人々は少しずつ前を向いて動き出しているように思いました。もっと打ちひしがれ、鬱屈としていて、掛ける言葉に困る状態なのかと思っていましたが、そういう時期を越えて、現実的に生きることに向かっている姿が目につきました。

一方、気掛かりな人たちもいました。体育館の一番隅のテントにいたおじいさんもその一人です。配膳で避難所に入ると、いつもラジオを大音量に流し、ひとりでテントに籠っていました。消灯時間を過ぎてもラジオの音は続くのだそうです。大音量のラジオは孤独のSOSなのかもしれません。バスで乗り合わせたおばあさんは、命からがら金沢の息子を頼っていったけれど、長期化するほどに気を遣ったり、折り合いが悪くなったりして、お一人暮らしを選んだとおっしゃっていました。また、電気が復旧したと聞いて自宅のある団地に戻ってみると、自分の棟だけ電気も水も通っておらず、結局、学校まで水を汲みに来ていたご高齢のご夫婦もいました。一度避難所から出てしまうともう食事のサービスは受けられません。

輪島市は人口の約30%が75歳以上の後期高齢者です。思うように体が動かない、環境の変化に心が追い付かない方もたくさんいらっしゃると思います。馴染みのないテントと段ボールベッドでの避難所生活、仮設住宅へ移った後のこと、先の見えない不安は若者以上に重いものかもしれません。それでも輪島を離れたくないと考える方がご高齢になるほど多いそうです。

避難所のお知らせを貼っているホワイトボードの裏に「じしんこわい」と涙目の絵が残っていました。瓦礫を取り除き町を直していくのは、進捗が目に見えるのでわかりやすいことです。けれど、心がどうなっているのかは周りから見えません。日中は元気に過ごしていても、夜になると涙が止まらなかったと仰る方もいました。過去の災害では、発生数か月後から不眠など精神面の不調が顕在化するとの報告もあるそうです。形あるものだけでなく、そういった見えない部分へのケアがこれからより一層求められるのだろうと感じました。

避難所に残された絵

参考
輪島市 https://www.city.wajima.ishikawa.jp/top.html
北陸中日新聞 5月20日(月)日刊
北國新聞 5月23日(木)日刊
北國新聞 5月24日(金)日刊

寄稿者 ほりえりえこ
湘南在住。小学生の娘と暮らしてます。今を大切に。日々のなぜ、なに、どうしてを大切に。心が動いたこと、子どもに伝えたいことを書いています。