善了寺還る家ともに では2010年に5周年記念として「ねがい」と名付けた冊子を作成しました。そこにはご利用者の戦争体験からの平和への願いが綴られています。70年目を迎える終戦の日にむけて、その一部を掲載させて頂きます。 

横浜大空襲

~5月29日はいつもと違い、朝8時頃いきなり空襲警報が鳴りました。よく澄んだ青い空にB29の偵察機が横浜の上空に飛んできたのです。私は家を出て、市電に乗って分室に向かいました。電車はすぐ止まりました。「早く下りて下さい」と車掌さんが叫びました。私は家に帰ろうかと思いましたが‘死んでも職場を守れ’という教育でしたので、もう500メートルくらいの分室なので一生懸命お友達と手をつなぎ、家々の軒先を走りに走りました。サイレンは鳴り続いていました。空には日本の兵隊の撃つ高射砲の音。

朝、家を出る時下駄で出てきた事を悔いました。肩から防空頭巾の雑嚢を背負い、「早く、早く」と校門のところで男性の社員が手招きをしていました。たどり着くと同時に私は防空壕に入りました。この壕は海軍の兵隊さんが作った立派な壕で、なかで軍の発表まで聞けました。

艦載機でB29が500機、P51が100機だったとか・・・。横浜がたった1時間くらいで焼け野原になってしまったのです。死者は7000人、負傷者はその3倍だったと記憶があります。

そして私達は1時間くらいで壕から這い出て‘横浜は全滅’と抱き合って泣きました。それから上司の励ましの言葉を聞き、家路を急ぎました。けれど、全く路が分からなくなってしまい、市電は焼けて熱のために線路も曲がりくねってしまい、目標となる建物もなく、また通る道は炎があって熱く、所々に鉄兜が転がっています。逃げる時は暑くてかぶっていられなかったそうです。市民は火を消すより避難するのにやっとだったそうです。走った時には、朝下駄で出かけた事を悔みましたが、今度は熱い道を歩くのでゴム底の靴でなくてよかったと思いました。

~中略~

悲惨な戦争に出会った私達は戦争を知らない子や孫に伝える責任があると思います。世界平和のパスポートを失ってはいけないのです。今の平和に感謝しつつ・・・