平成29年3月8日、 東日本大震災7回忌法要を行ないました。

また、御講師に鎌倉布教所の高見沢先生をお迎えして、ありがたいお話をおきかせいただきました。

この度、善了寺の岩崎が3月11日を前に高見沢先生のお話をうかがい、感じたことを、書かせていただきました。

 

煩悩を抱えて歩む私の人生

東日本大震災から六年が経とうとしている。

高見沢先生は震災直後石巻にある本願寺派寺院でのボランティアに参加された一人だ。当時を思い返してみると、震源地のみならず日本全国が混乱に見舞われた。その一つの要因が「不安」である。直接的な被害のない関東でさえコンビニから食料が消え、ガソリンスタンドではガソリンがなくなり、車が長蛇にわたり列を作った。テレビやインターネット、または人から聞いた噂でさえ多くの情報を鵜呑みし、自らを安心させたい。「もしかたら」という不安から、現実を見ているようで見ていない。その真実かもわからない情報に振り回された結果が当時のあの状況だ。真実から一番遠い存在が私、煩悩におおわれた私であった。

腹の底では何を考えているかわからない、煩悩におおわれた凡夫・私がいかにしてこの人生を歩んでいけばいいのか。それは一度立ち止まり、自らの有り様を振り返ることが重要となるだろう。振り返ってみたときに、どこまでも自己中心的な生き方しかできない私であったと、目の前のものにばかり目がいき、その先にあるおかげ様を忘れていた凡夫であったと気づかされる。その煩悩の闇におおわれた私を阿弥陀様は必ず救うと、常に私を照らして下さっていた。自らの力で道を切り開けると思っていた私に、阿弥陀様が、過去からの多くのご縁つながりが、間違いのないお浄土への道をお示し下さっているのである。

震災をまたご縁として、命の尊さ・はかなさに思いをいたし、自らの有り様を振り返る。私の歩む人生は、煩悩をかかえたまま多くのご縁に支えられて、阿弥陀様からの光明に照らされながら歩ませていただくお浄土への人生である。と高見沢先生の御法話からお味わいさせていただいた。