明治時代、善了寺の境内地に明允学舎という分校がありました。この分校を舞台に、自由民権運動の結社である、友文会が演説会を中心に活動していきます。

「本堂が演説会会場ではなかったんだ」と思う方もいると思います。実は、善了寺の本堂は、幕末に焼失して、明治2年に再建されています。その間、6年ほどなので幕末の時期にすごいことだと思います。本当に驚きです。

昭和に撮影した昔の本堂の写真がかろうじて残っていますが、おそらく大きなものではなかったと思います。お寺として、大変な時期でもあったのだろうと想像できます。本堂はさらに、関東大震災で被災し、祖父成田恵門住職の時代になって、再建されていきます。

先日、近代150年を考える勉強会でお迎えした大日方純夫(おびなた すみお)先生は、優しい語り口調で、明治の頃の活動を語りかけてくださいました。友文社は、東京にあった、嚶鳴社(おうめいしゃ)という結社の流れでした。重要なメンバーである肥塚 龍・島田三郎という面々が演説にきていることからわかります。

この結社は、フランス系の法律官吏の方が中心になっていたため、発想がフランス系の民権運動ということになります。明治14年の政変で、政府はプロシア系の政府運営を柱にします。大きな分岐点でした。戸塚では1881年7月〜1882年1月まで演説会があったと記録されています。

自由民権運動は、さまざまな階層・職業の人々からなる結社を生み出し、民権運動の背後には、政治・学術・学習・情報・産業・扶助・懇親など多彩な結社活動があった。
『日本の歴史 私の最新講義 自由民権期の社会』大日方純夫 敬文舎 22頁

とあるように、演説会はまるで祭りのようだったろうとおっしゃいました。男性も女性も、大人も子供もみんなで、暮らしのあり方を考え、憲法を語り、国際社会における日本のあり方を学び、考えていたのでしょう。

その姿は、決して過去のことではなく、今の私たちに語りかけてくれているようです。私たちは、みんなで暮らしを考えているでしょうか?世代が分断化され、生老病死がバラバラになり、細分化されて、問題として解決する対象となってしまうところに暮らしは失われていくのだと思います。「結社」のあり方を学ぶ時、現代のコミュニティーの中に、たくさんの暮らしのヒントを与えてくれているのではないでしょうか。

生きていることは、決して亡くなった方々と切り離されているのではないという感覚がとても大切なのだと思います。暮らしとは、亡き人と共に今を生きる生活のことです。亡くなった方々を過去に押し込めることで、私たちは、「自由」を取り戻したのでしょうか。いやきっと、不自由になったのだと思います。「自」らの存在の理「由」を見失ってしまうこと。それが不自由ではなかったでしょうか?亡き人が、み仏と同じさとりを開き、私たちと共にこの世を生きようと働きかけてくださる時、いつでも、問い直すことができるとおもうのです。「自由」とは何かと?なんの為に生きているのかと。

善了寺の境内地に、自由民権運動の結社があったことを感じていただきながら、是非、お寺のお参りください。